今でこそ平和な日常を送っているが、私の病気の初期は地獄であった。ただのひきこもりと化した人生に苛立ち毎日のように荒れて暴れた。なぜ自分ひとりだけが社会から取り残されてしまったのか、絶望と怒り、世の不条理と世間への妬み、そういったものが常に溢れかえり爆発した。

終いには母の一言一句が全て癪に触り、座布団でばすばす叩くようになった。母は包丁で防衛する。弟は隣の部屋でじっと耐えるが、さすがに限界がある。弟も襖をばすばす叩く。怒り狂っている最中の私は我を忘れて「電気ポットの湯を頭からあぶせてやる」と宣言。母は必死で止めた。結局最悪の自体は避けることができた。

もしあの時あの一線を越えてしまっていたら、弟は全身やけどで悪くすると死んでしまっていたかもしれない。一生消えぬやけどの痕が残ったかもしれない。我が家は幾度もそういった修羅場を経験したが、私は一度もその一線を超えることはなかった。だから今があると言ってもいい。

私は昔から正義感の強い子供であった。それはすぐ近くに住んでいた母方の祖父が、幾つもの警察所長を歴任した人格者であった事が大きく影響していた。祖父はいつも私の事を考えてくれていたし、私は祖父が大好きだった。なので私は祖父の顔に泥を塗るような悪事は一切しないというポリシーを持っている。私が数々の修羅場で一線を越えずに済んだのは、ひとえに祖父の心理的支えの賜物であった。

私の今の医者は三人目である。二人目の医者になった時、薬が変わって、私の陽性症状は一気に良くなった。暴れる回数は日に日に少なくなり月一程度になった。しかし世の中良い事だけというのはないもので、その分その一回の爆発がより大きなものとなった。このままでは一家が共倒れになってしまうという危機感が日に日に強くなった。

そこで私は別居中の父の所へ引っ越す事を自ら決めた。父とは家庭の事情によりほとんど会っていないという、こう言っては失礼だが、他人同然の人物である。本当は一人暮らしをしたかったが、金がないという事以前に、病気である私を監視する人がいなくなるという事が大問題であった。この点で父が別居中だったということは実に都合が良かった。

父の元へ行くという決断は勇気がいる事だったが、当時それ意外に解決法がなかった。私がどんなに暴れても母は決して私を見捨てない。現在に至るまで私を見限らなかった優しい母である。しかし問題を解決できるほど頭が良くない。母はじっと耐えるのみである。母が私を見捨てないのならば、私の方が一時的に距離を置くのが家族の為には最善だと私は考えた。

実際引っ越しをすると暴れることがなくなった。父は日中仕事に行ってしまうので、怒る対象が家に誰も居なくなってしまったのだ。そこで時間をかけて母への依存心を減らしていったら、母の元へ帰っても暴れることがなくなった。ここで始めて私は家庭内暴力を克服する事に成功した訳だ。依存心が人を家庭内暴力へ走らせるのだという事が経験から分かった事だった。

ただ父とはあまり上手くは行かなかった。ずっと一緒に暮らしていなかったのだから当然と言えば当然である。その間、私は父の家と母の家を数ヶ月単位で行ったり来たりする事となった。だが父が突然の私の提案を受け入れ、二部屋のアパートまですぐに用意してくれたのには大変感謝している。父は父なりに私の為に色々やってくれたし、おかげで私も陽性症状を克服する事が出来た。父の家に居た数年間は貴重なものだったと思う。

私が苦しんだ陽性症状の経過はこんな所である。簡単な説明ではあったが、実際は一つ一つの出来事が一撃必殺の難問と言えるほど破壊力のあるものだった。あんな地獄は二度と経験したくない。この種の問題で今現在苦しんでいる人達も多くいる。そういった人達に少しでも私の経験が役立つならば、これを書いた意味があったと言えるだろう。

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