夢をあきらめさせようとする最悪の助言


人の願いというものは非常に強力な力を持っている。人類に与えられた力の中では最も強力なエネルギー源だ。その力は恐らく愛の力よりも強力だ。愛は相手の幸せを願うこととも言える。もし愛情余って憎さ百倍になり、相手の不幸を願うような事になったらどうだろうか。感情としての愛は相手の幸せも不幸も願うことが出来る。つまり本質的には「願う」という部分が重要なのである。願いは言わば様々な感情の「動力源」としての性格を持ち合わせている。

私の一番の関心事は夢についてである。私にはかつて大きな夢があった。しかし私はそのような夢を追える身分ではない。私は社会的に大きなハンデを背負っているので、その夢が叶う見込はほとんど無かった。

そんな立場にいる私が、夢について語ったり、またその夢が叶う見込みが無い絶望を人に語った時、皆には「夢は夢のまま心に持っていていいから、それが叶うチャンスが来るまで、今自分に出来ることをするべきだ。」というようなアドバイスを貰うことがよくある。

夢は、それ自体を持っていたとしても、願わなければ叶わないのだ。

皆のアドバイスは、夢は持っててもいいけど、それが叶うよう願ってはいけない。夢は捨てなくて良いけど、願いは捨てなさいという意味だったのだ。訳の分からん日本語である。これは『バーに行ってもいいけど酒は飲むな』と言う様なものだ。

しかしこれはアドバイスをした者の優しさの表れとも取れる。多くの人にとってこれは「現実に叶わないことを願うと苦しむから、願うことをやめなさい。そうすれば無闇に苦しまずに済むよ。」というのが大まかな意味なのだろう。

しかしこれにはもっと残酷な意味合いが含まれている。この言葉の意味する本当の所に気付くまでかなりの時間がかかった。

その前にこの不条理なアドバイスに対抗する言葉を示す。「夢は叶うものではない。叶えるものだ」というのがそれで、よく聞く言葉である。これの意味するところは、夢をただ持っているだけではダメで、きちんと「願い」という「動力源」を伴ってください、ということだ。

しかしこれ、普通の人間には解決策でも、ハンデを負った人間にとっては悩みどころだ。弱者はハンデがあるが故に願っても叶わないことが異常に多い。そこについて悩んでいると皆は先述の訳の分からんアドバイスを返してくるわけである。結局堂々巡りに陥る。

結局、願っても願わなくても夢は叶わないのである。そうなってくるとさっきの不条理なアドバイスは全然不条理ではなく、実に的を得た救済策となる。「夢は捨てなくて良いけど、願いは捨てなさい」という話に、ハンデがある者はなにも反論することが出来なくなる。これが叶わない苦しみから逃れる唯一の方法のようにさえ感じてくる。

しかしどうしても私はこれを飲み込めない。『バーに行ってもいいけど酒は飲むな』というアドバイスはどう考えても不条理である。周りの皆は楽しく酒を飲んでいるのに、なぜ私はそれを許されないのだろうか。私が障害者だからか。いっその事もう私はバー自体に行かないほうが良いのではないか、と自然に考えるようになってくると話が劇的に悲惨なものになる。

バー自体に行かなくなる。それはつまり『夢そのものを捨てる』と言う意味に置き換わるではないか。つまり皆のアドバイスは「願うことをやめよ。夢も捨てよ。あきらめろ。」という驚愕の真意を持っていたことに気付く。

皆は私に対してまさか「あきらめろ。」とは面と向かって言いにくい。だから肝心な部分を省略して優しさを装いつつ、問題のアドバイスを返してきたのである。しかもご親切なことに、私がいずれ自然にそういう選択をするように誘導までしていた事になる。

「夢は夢のまま心に持っていていいから、それが叶うチャンスが来るまで今自分に出来ることをするべきだ。」という趣旨のアドバイスは、夢を持っている人間に対して絶対に放ってはならない言葉だ。夢を否定する言葉だ。人に備わっている非常に強力な生きるための動力源を放棄させるよう迫る、世界最悪の助言と言って良い。

例え言った本人がそこまで深い意味を意識しなかったとしても、その言葉には相手の夢をすべて否定してしまう力がある。私の場合は『夢=自分の存在理由』であったから、夢が無くなるということは、自分が消えてなくなることと同義であった。

夢を手放すようそそのかす者に出会っても、決してその話に耳を貸してはいけない。

投稿者:

長門志気

統合失調症と闘うおっさん。いつの間にか病気の症状がなくなっており、今はかねてからの望みだった放送大学での勉学に勤しむ日々を送る。