あちらこちらで『人類は増えすぎた』というセリフをよく聞くようになった。それはエネルギー問題や食糧問題を議題とする時に出やすい。陰謀論者に至っては、世界の人口を減らすための人工的な災害を起こしたり、ウィルスをばら撒くなどの計画が裏で進行しているといった間抜けな妄言を平気で言う。一体何を持って増えすぎたと言っているのか私には分からない。
逆に私から言わせるとまだ全然足りてない。
それはなぜか。私が論点としたいのは文化の多様性と、それの担い手である人が全然足りないということについてだ。
これは私が2014年に開設した初期ブログのカテゴリーです。今考えるとこれは当ブログと、その後の私のネット活動の原型となるものになりました。当時の私は文章を書くのがすごく苦手で、1年かかっても数十回しか更新できないという、ブログとしてはあまりにも不本意な出来になりガッカリした事を覚えています。
あちらこちらで『人類は増えすぎた』というセリフをよく聞くようになった。それはエネルギー問題や食糧問題を議題とする時に出やすい。陰謀論者に至っては、世界の人口を減らすための人工的な災害を起こしたり、ウィルスをばら撒くなどの計画が裏で進行しているといった間抜けな妄言を平気で言う。一体何を持って増えすぎたと言っているのか私には分からない。
逆に私から言わせるとまだ全然足りてない。
それはなぜか。私が論点としたいのは文化の多様性と、それの担い手である人が全然足りないということについてだ。
今年の大きな目標の一つに断捨離をするということを掲げた。それは以前のエントリーで宣言した通りだ。今年も半分が終わったが、断捨離の進捗状況は良好だ。
以前の私の部屋は常軌を逸していた。六畳強の部屋を間仕切りで二つに分け、片方は寝る場所で、もう片方が日常的に過ごす場所だった。この狭い部屋には、なんと学校や会社で使うような会議テーブルが二つもあり、それが広大な作業スペースを作っていた。もちろん上にはパソコンが乗っかっており、シンプルかつ効率的な空間で私は多くの時間を過ごしていた。
なんて言ったらいいかよく分からないが、ニュースがヒドイ。
どうヒドイのか良く考えてみたら、行き過ぎた『センセーショナリズム』というものが原因だ。なんでもオーバーに、時に歪曲して大々的に情報が流れていく。テレビのニュースも新聞もネットメディアもどうにもならない。嫌でも目に付くからついつい確認のために観るのだが、内容なんてなんにもないものばかりで、その度に「またか」「時間を無駄にした」と思う。
私はネットのニュースを見るとき、どれがセンセーショナリズムを用いて私にクリックさせようとしているのか、無意識のうちに仕分けるようになった。頭が自動的にスパムフィルタのように機能しているのだ。
『自分に迷惑が掛からなければ、後はどうでもよい。』この思考をやめよう。これからお堅い話を始める。
日本人は「戦争は良くない」と皆口を揃えて言う。私は、これは日本の過去の歴史を考えた上で出た日本国民の総意なのだと思い込んでいた。しかしよく考えると実態がどうも違う。庶民がこの言葉を言う時頭に浮かべているのは「自分が戦争に行かなくてはいけないかも」とか「息子や知り合いが戦死するかも」とか「爆弾が降ってきて家も財産も失うかもしれない」という様な事だ。この時、国がどうとか、弱者がどうなるとか、人が死ぬ事についてなど、深く広く考えている人は稀だ。
人が死ぬ事について庶民の考えはいたって単純なようで、自分や家族が死ぬのは嫌だが赤の他人ならどうでもよい、という心理が働いているように思う。私はこの庶民の感覚に気付いた時、庶民のレベルに落胆した。そして人のくだらなさを嫌という程感じた。
芸術とは感情の表現である。
それを受け止める人に求められるのは感情移入だけだ。
これが私の持論であり答えだ。
私は今、au回線のiPhone 4Sを愛用している。
日本ではソフトバンクが一番最初に取り扱いを始めたiPhoneであるが、それは3Gという第二世代の機種であり、それ以前に、海外では初代iPhoneが熱烈なムーブメントを巻き起こしていたことを知る人は少ない。私はその初代iPhoneを故スティーブ・ジョブズが発表し、プレゼン&デモを行った一部始終をネット越しではあるがリアルタイムでチェックしていた。何故なら私は熱狂的なアップル信者だったからだ。
初代は残念ながら通信方式が異なるために日本での発売は技術的に不可能だった。私は大変残念に思った。私はパソコンという文化で育った。私にとって、メールもウェブもパソコンが標準であるということは疑いようのない事実だったが、日本では後にガラケーと総称される物が全盛を極めていた時代。その状況を苦々しく思っていた時iPhoneが登場したのだ。私にとってまさに救世主であった。
現在午前五時。今私は真っ暗な公園にいる。私はこれを紅茶花伝とタバコを片手にベンチに座って書いている訳だ。紅茶花伝には大変な思い入れがあり、今は亡き大切な人と過ごした日々などを思い出している。
私の闘病生活も長いものだが、かつて私には最強の協力者がいた。その人物は私の母方の祖父で、協力者でもあり、良き理解者でもあった。私は大のおじいちゃんっ子で、子供の頃は一緒に住んでいたこともあるし、我が家が引っ越してからも極近場に住んでいたので大変可愛がってもらった。
祖父は私が病気になった後も毎日のように我が家へ様子を見にやってきた。引きこもり同然の生活をしていた私にとって、祖父は外の世界から来る数少ない存在だ。
今でこそ平和な日常を送っているが、私の病気の初期は地獄であった。ただのひきこもりと化した人生に苛立ち毎日のように荒れて暴れた。なぜ自分ひとりだけが社会から取り残されてしまったのか、絶望と怒り、世の不条理と世間への妬み、そういったものが常に溢れかえり爆発した。
終いには母の一言一句が全て癪に触り、座布団でばすばす叩くようになった。母は包丁で防衛する。弟は隣の部屋でじっと耐えるが、さすがに限界がある。弟も襖をばすばす叩く。怒り狂っている最中の私は我を忘れて「電気ポットの湯を頭からあぶせてやる」と宣言。母は必死で止めた。結局最悪の自体は避けることができた。
もしあの時あの一線を越えてしまっていたら、弟は全身やけどで悪くすると死んでしまっていたかもしれない。一生消えぬやけどの痕が残ったかもしれない。我が家は幾度もそういった修羅場を経験したが、私は一度もその一線を超えることはなかった。だから今があると言ってもいい。
貧困の神様というのがいる。世に貧乏神と呼ばれる存在だ。神様というからには何かご利益がありそうなものだが、貧乏の文字からあまりいい印象は受けない、神様の中でもかなり変わった存在である。
私は統合失調症と診断されるまでの数年間は引きこもりとしての人生を送っていた。なぜ自分が学校へ行けなくなったのか、自分でもよく分からずかなり悩んだ。当時引きこもりは社会問題になっており、様々なテレビ番組で特集されていた。実際は病気であったのだから一刻も早く病院へ行くべきだったと母は悔やんだが、なまじ世間様で引きこもりが流行っていたが為に判断が狂ってしまった。