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闘病記の跡地 Posts

エアロバイク

エアロバイクを買った。〆て一万八千円なり。せっかく断捨離したのにこんな物買ってるようじゃダメか。とにかく早く痩せねば。以前の一日一食生活でも痩せたけどまだまだだ。捨てるべき物もまだ若干残っているし、ぼーっとしてるとすぐ時間が経ってしまう。

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枝が伸びる

家の玄関にはオリーブの木が生えてるのだが、こいつが無駄によく伸びる。まずい事にその上は電線が通っており木の枝が接触している。植木屋を呼ぼうと思っていた矢先に台風8号が発生。NHKニュースによると最強クラスの台風らしい。電線が切れたら大変だ。温帯低気圧にでもなる事を祈るしかない。

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富・名声・力 異質な者と協力する事で成功する

富・名声・力の三点すべてを手に入れることは不可能である。これは私独自の世界認識ではあるが今のところこれを否定する根拠を私は知らない。ただし二つまでなら可能だ。

『富と名声』を手に入れた人物として最も想像しやすいのは芸能人である。芸能人の名は国中に知れ渡り、ギャラとして莫大な富を手に入れる。しかしその二点を手に入れた代償で三点目の力を手に入れることはできない。

芸能人が自衛隊を動かすことはないし、また政治の世界で大成することもない。芸能人がその知名度を利用して政界に進出することがあるが、大抵の場合ほぼ無力に等しい。

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人類は増えすぎた? 文化の担い手という視点

あちらこちらで『人類は増えすぎた』というセリフをよく聞くようになった。それはエネルギー問題や食糧問題を議題とする時に出やすい。陰謀論者に至っては、世界の人口を減らすための人工的な災害を起こしたり、ウィルスをばら撒くなどの計画が裏で進行しているといった間抜けな妄言を平気で言う。一体何を持って増えすぎたと言っているのか私には分からない。

逆に私から言わせるとまだ全然足りてない。

それはなぜか。私が論点としたいのは文化の多様性と、それの担い手である人が全然足りないということについてだ。

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断捨離 寝室になぜ会議テーブルが2つも?

今年の大きな目標の一つに断捨離をするということを掲げた。それは以前のエントリーで宣言した通りだ。今年も半分が終わったが、断捨離の進捗状況は良好だ。

以前の私の部屋は常軌を逸していた。六畳強の部屋を間仕切りで二つに分け、片方は寝る場所で、もう片方が日常的に過ごす場所だった。この狭い部屋には、なんと学校や会社で使うような会議テーブルが二つもあり、それが広大な作業スペースを作っていた。もちろん上にはパソコンが乗っかっており、シンプルかつ効率的な空間で私は多くの時間を過ごしていた。

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センセーショナリズムを用いた報道への疲れ

なんて言ったらいいかよく分からないが、ニュースがヒドイ。

どうヒドイのか良く考えてみたら、行き過ぎた『センセーショナリズム』というものが原因だ。なんでもオーバーに、時に歪曲して大々的に情報が流れていく。テレビのニュースも新聞もネットメディアもどうにもならない。嫌でも目に付くからついつい確認のために観るのだが、内容なんてなんにもないものばかりで、その度に「またか」「時間を無駄にした」と思う。

私はネットのニュースを見るとき、どれがセンセーショナリズムを用いて私にクリックさせようとしているのか、無意識のうちに仕分けるようになった。頭が自動的にスパムフィルタのように機能しているのだ。

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戦争・原発・東日本大震災と広がる無関心

『自分に迷惑が掛からなければ、後はどうでもよい。』この思考をやめよう。これからお堅い話を始める。

日本人は「戦争は良くない」と皆口を揃えて言う。私は、これは日本の過去の歴史を考えた上で出た日本国民の総意なのだと思い込んでいた。しかしよく考えると実態がどうも違う。庶民がこの言葉を言う時頭に浮かべているのは「自分が戦争に行かなくてはいけないかも」とか「息子や知り合いが戦死するかも」とか「爆弾が降ってきて家も財産も失うかもしれない」という様な事だ。この時、国がどうとか、弱者がどうなるとか、人が死ぬ事についてなど、深く広く考えている人は稀だ。

人が死ぬ事について庶民の考えはいたって単純なようで、自分や家族が死ぬのは嫌だが赤の他人ならどうでもよい、という心理が働いているように思う。私はこの庶民の感覚に気付いた時、庶民のレベルに落胆した。そして人のくだらなさを嫌という程感じた。

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