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睡眠から逃れた人間は存在しない

病気とは辛いものだ。体の病苦はいずれ死につながるだろう。しかし病気にも様々あり、私の様な精神障害者は『いずれ』では済まない。精神障害者の多くは今日明日の『死』と向き合わねばならない。

その時の流れの中で、私は気が付けば三十路を迎え、病歴18年という人生の半分以上を闘病生活に捧げる結果となった。私がまともだったのは子供の頃だけ。しかももうその記憶も朧なモノとなった。その後の長期にわたる闘病生活で、病気そのものが、もはや私のアイデンティティとなっている。

この様な時間を過ごすと、私にとって時間や死といったモノは、もはや恐れるものではなくなった。私は病苦と闘いながらも18年生き延びたのだ。この経験で、人間、どんなに苦しくても、そう簡単に死ぬものではないという事が証明された。だから私は死を恐れない。

一方私を悩ますのは睡眠という不可思議な現象だ。死から逃れた人間などいない。だが同時に、睡眠から逃れた人間も未だ存在しない。死は一生に一度の事だが、睡眠は毎日ある事だ。

人はなぜ寝るのだろう。極端な話、寝て起きたら明日になっている保障があるのだろうか。寝て起きたらまた同じ日である可能性は? 寝て起きたら昨日に戻っている可能性は? 起きたら子供に戻っていたり、逆に老人になっている可能性はないのか?

馬鹿馬鹿しく思うかもしれないが、今日が本当に昨日の続きとしてあるものなのかを、誰も証明してはくれない。私は人生の始まりを記憶していない。赤ちゃんだったからだ。また私は人生の終わりも記憶していない。死んでないからだ。この事が頭の中で一周廻ると、そもそも私は本当に死ぬのかという事が不安になってくる。

なぜ睡眠は毎日やってきて私の意識を妨げるのか。今日と明日の間に、なぜ区切りをつけたがるのか。これはいくら考えても分からない話だ。そうなると重要なのは『今』であり『今日』という事になる。今日を精一杯生きて寝る。寝て起きたらその後どうなっているのかは判らない。兎に角今日生きている事には何らかの意味があると考え、今日を全うしなくてはならない。今日出来る事は今日すべし。明日の計画など立てるだけ無駄だ。

私は何故、今、此処に居るのかを常に考えている。今日すべき事は何か、常に考えている。だが人間、たった一人では今日一日で出来る事なんて滅多にあるものではない。だから私は天気を楽しみ、季節を楽しみ、食事を楽しみ、そして寝る。このサイクルに、いずれ『仕事』が加わる日が来るのを心待ちにしながら、寝るのだ。仕事が加わるその日には、私の病気も良くなっているだろうから。