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文化人気取りの稚拙な批判が溢れてる

ネットを見てると色々なコメントを見ることになるが、それを大きく分けると三つのパターンに落ち着く。それは何かというと『批判』『つっこみ』『自分の話』だ。この中で一番有益なのは自分の話をしてくれる人達だ。何故ならその人しか体験してない事、つまりオリジナリティのある話が聞けるからだ。だがこういう人に出会うのは稀である。

それに対して可もなく不可もなしといったつっこみコメントは多く見かける。つっこみは小中高の学校では一番有効なコミュニケーション手段であり、多くの人が未成年の頃から慣れ親しんだ表現方法だ。

これが普及している最たる原因は二つで、一つはテレビのお笑い番組の影響、もう一つは漫画やアニメの影響だ。子供の頃から親しんだつっこみという表現は、現代の日本においてコミュニケーションのデファクトスタンダードとなっている。もし現代のつっこみを戦前の日本でやったら「不真面目である」とされて相手にされなくなるだろう。

一方大人になってくると批判精神というのがふつふつと湧いてくるらしい。自分の考えを持ってくると、それも用いて社会や出来事などを批判する事が高級だと思われているようだ。これはどこから来るのだろうか。

私の以前のエントリー『士農工商理論 文化人編』によると、文化人の特徴として批判精神があると書かれている。思うにメディアやネットに出てくる文化人の批判や振る舞いが、庶民にとって一種の憧れになっているようだ。過去にも『文士』と言われる文筆家などが居た時代は、その批判精神が当時の学生達の憧れとなっていた。なので現代において多くの批判コメントは、文化人を真似ているだけだと言える。

私から言わせれば批判というもので満足しているようでは人として三流である。建設的な意見や助言ができて二流。自らが問題を解決できるようになってやっと一流といった所か。

「批判だけなら誰でもできるよ」という批判が誰にでも出来るという事が、批判が三流であるということの証明になるのではないだろうか。結局批判というのはなんの役にも立たない。しかし一方では批判が出来るようになると立派であり高級であるという優越感の様なものがあるところを見るに、どうも現代人は思い違いをしているような気がしてならない。

自らが問題を解決できるようになって一流という事は、何かを開発しているエンジニアや、医療の現場で実際に働いている医者や看護師、物事の本質を探求する科学者といった人たちと、ただ批判しているだけの人たちでは雲泥の差があるということだ。この差は決定的である。

ネット上に溢れる批判コメントを見ると私は不愉快になる。というのも所詮は文化人を真似ているだけなので、肝心の批判そのものが実に稚拙なのだ。いい歳した大人がこの程度のことしか喋れないのかと思うと不愉快を通り越して残念にさえ思えてくる。ネットの登場で多様なコミュニケーションが取れるようになったのは良い事だが、実際にネット上を飛び交っている情報の多くにはなんの意味もない。それにはつっこみをふくめても良いかもしれない。自分の話ができるような人がもっと増えてくれることを切に願う。

追記・最近では同一の内容を広める『拡散』コメントが急増しているように感じる。これもあまり意味のない情報の流通の仕方である。