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カテゴリー:Blog (1)

これは私が2014年に開設した初期ブログのカテゴリーです。今考えるとこれは当ブログと、その後の私のネット活動の原型となるものになりました。当時の私は文章を書くのがすごく苦手で、1年かかっても数十回しか更新できないという、ブログとしてはあまりにも不本意な出来になりガッカリした事を覚えています。

互いの優劣をハッキリさせるまで続く揉め事

世の中の人々というものは、突き詰めて考えると「優」か「劣」かの二択でしかモノを考えることが出来ないらしい。実に不憫なものである。その様はある種の強迫観念の様相を呈しており、他人を劣だとして見下し、自分を優であると頑なに盲信する。学歴や収入、クルマ選び、恋愛、その他様々なことに対して自らが優でいられる根拠や情報を渇望するその様は、私から見れば異常であるとしか言いようがない。

しかしそのような人間ばかりが出来上がるのは当然でもある。子供の頃からテストの点数を気にして育ち、受験戦争の結果をもってして自分の社会的地位を自覚する。恋人を選ぶ時にもこの優劣的思考回路は機能する。また就職活動やその後の会社での役職などなど、この世に人として生まれた以上、常に優劣を意識せざるをえない状況下で生きてゆくことになる。

それ自体は別段悪い事ではないのかもしれない。言ってみればこれが競争本能の正体であり、それが今日の経済を回している力でもある。でも少しばかり、いや、かなり行き過ぎではないか。

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士農工商理論 文化人編

士族・農民・職人・商人、この四つについては基礎編で述べた通りだが、ここに文化人を追加し、この五つをもってして初めて士農工商理論は完成する。基礎の四気質に人々を分類した場合、僅かだがどうしてもそれに漏れる異質な人が出てくる。その人々をまとめて文化人という括りに入れる。

文化人は元々四気質のうちのどれかであった。それがそれぞれの道を歩むうちにレベルアップし、四気質の範囲を飛び出し、縦横無尽に世間を渡っていけるようになる場合がある。それが文化人である。これは人間性の進化と言ってもいい。文化人は四気質を横断する思考が出来、様々な人々に影響を与えるような強烈な気質と定義すべきだろう。

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士農工商理論 基礎編

人間にはそれぞれ気質というものがある。それを分類し指針にするための私の基準を士農工商理論と呼ぶ。人には、大きく分けて士族・農民・職人・商人・文化人という属性がある。文化人は取り扱いが難しいので、ここでは士農工商の四つを基本として考えるべし。

士族。それは戦い、争うことに特化している。現在では政治家が代表格だが、多くは他の職業でも主に争うことを担当している。面白いのは私の指針で考えると暴力団も士族に分類されることだ。彼らは問題を解決しようなどとは思わない。自身が争いの場に居る事、今後も居続ける事、そして争い続けられることを第一に考える。

現在の政治を見てもわかるように、政治家はいつももめている。揉めないで済んだ試しはない。また揉める物が無くなると新たな問題を呼び出し揉め続ける。選挙制度も詰まる所、いかに合法的に争いを行うかというシステムであり、名誉や金などの要素を含ませ、士族の気質をよく反映し現在の仕組みに収まっている訳である。

士族気質はむしろ普通の社会に多くいる。彼らはそれぞれの仕事をする中で、モノの判断基準を自身の自己顕示欲を満たす事に置いている。争い勝てば自己顕示欲は満たされる。一方負けが続くと社会から脱落し荒れた生活を送る。その様は落ちぶれて野武士になった薄汚い山賊の如しだ。

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障害を抱えてどう生きるか – 2014年の方針

前回私の絶望的境地を書いたが、それを踏まえた上で今年をどう生きるか考えなくてはいけない。本来私の置かれた状況は、自ら命を断つに十分すぎる程の威力を持っている。我ながら感心するのは、今もしぶとく生きている事であり、死ぬつもりなど毛頭ないという事だ。なぜなら状況が良くなっているような気がするからだ。

病状は一向に良くならないのだが、人間としてはここ数年、驚異の成長を遂げている。私は一種の悟りを得ているのだと思う。前の医者は同じ所をぐるぐる回っていると言ったが、回っているように見えて、実はこれが螺旋階段だったのではないかと思える。一周回って来ると、一階分上に上がって来ていたような気がする。

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妄想と言う名の狂気だったんだよ

新年早々妙な話になるが、私は情報学者になりたいという夢を諦める決断をするに至った。以前に書いた通り、私の夢はどんな最悪の状況下においても光り輝いていた。しかし精神障害者という身分では夢が叶わない事ははっきりしていた。それでも状況が好転するのを待ち、自分なりの努力はしたが、上手くいかなかった。

芥川龍之介の『羅生門』という作品に以下のような意味の文が書かれている。それは「どうにもならない事をどうにかしようとして、考えが同じ所を何度も低回した」というようなことだ。私の闘病生活の大部分が、まさにこのような状況だった。

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SNSで自分の障害をオープンにすべきか

私がブログなぞをやったところでアクセス数を稼ぐような人気ブログには到底なり得ない。私は俗人受けする軟派な物事にほとんど関心がない。

私は今日、ネットの世界を縦横無尽に動き回れるようになり、IT業界なぞを十年以上ネット越しに眺めて育って来た訳なのだが、インターネットの中で、ただ一つ、全く関係のない世界として傍観するしかなかったモノがある。それがコミュニティの存在だ。

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