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生きていく為には仕方のない事なのだから

とあるセクシー女優についての記事が目について、なんともなしに読み始めてしまったのだが、そこでその人が自分のタイプの異性について「優しくて嘘つかない真面目な人」「ちゃんと社会に出ている人」と話しているのが気になった。

嘘をつかない人を挙げているのは、ああいった業界にいるからこそ強く求めるのだろうと勝手に解釈したが、社会に出ている人というのをわざわざ挙げたところに、私はなかなか考えさせられた。

これも勝手な解釈になるが、ああいう仕事をしていれば、関係者やファンの中に何だか分らない職業不詳の人が多くいて、そういった人に接する機会も多かったのだろうと思う。だからこそ出てきた言葉なのだろうか…

思うに、社会の底辺(失礼な表現で申し訳ない)で生きる為に必死にもがいている女の子の中では、この考え方が大勢を占めているのではないだろうか。以前、ネット上の病み垢で「ニートは甘え」とツイートしている人もいた。社会の中で嫌な仕事を引き受けている立場の人からすれば、私のように家で呑気に病人をやっている人など、軽蔑の対象でしかないのかもしれない。

この社会では他人(ひと)からお金を貰うとういう事が絶望的に難しい。人間はそれぞれが様々な事情を抱えて生きているし、特にハンデを背負っている人にとっては、お金を工面するという事は死ぬほどキツイ。だからそれを実際に乗り越えてきた人達というのは『甘えんな!』『働け!』と強く主張する。(体を売ってでも…という事になるだろうか…)

私がこれを考えた時に真っ先に思い浮かべたのは芥川龍之介の『羅生門』という小説だ。羅生門という作品は、奉公先から暇を出され(仕事をクビになったの意)行く当てもなく路頭に迷っている下人が羅生門での醜い老婆との出会いから盗人(この場合は広く犯罪者の意)になる決心をする、という物語だ。これは自分の欲から盗人になろうとしたのではない。生きる為に、他にどうしようもなかったから、下人は盗人になる決心をしたのだ。物語の中ではこの下人も最初は葛藤している。良心が痛んで踏ん切りが付かなかったのだ。それが老婆を見て決心するという物語。

これはそのセクシー女優の価値観に通じると思う。求める異性のタイプとして『ちゃんと仕事をしている人(就職している人)』ではなく『社会に出ている人』というなんとも独特な表現をしたところからもそれが伺える。

今の私は現状、家でただの病人をしている。私は過去の経歴からもうマトモな職業にはつけないだろう。でも悪人として社会に出て行く勇気はなかなか出ない。これは、踏ん切りが付かなくて羅生門で雨宿りをしている下人の状況とよく似ている。でも私もどこかのタイミングで決心する時が来るのだろう。生きていく為には仕方のない事なのだから。