Raspberry Pi B+を買ってみた。ケース付き。スペック的には私が高校生の時に使っていたパソコンに近く、なんだかその頃にタイムスリップしたような妙な気分だ。でも色々遊べそうな可能性は感じる。さて何を作ろう。
ブログの更新は終了しました。長い間、ありがとうございました。
Raspberry Pi B+を買ってみた。ケース付き。スペック的には私が高校生の時に使っていたパソコンに近く、なんだかその頃にタイムスリップしたような妙な気分だ。でも色々遊べそうな可能性は感じる。さて何を作ろう。
とうとうこのブログを〆る時が来た。前回のエントリーでは、今年取り組んだ事の成果が現れた喜びを書いた。この最後のエントリーでは私の今後について少し書いておこうと思う。
私はこのブログの冒頭に情報学の夢をあきらめるという決断を書いた。それに従い今年私はパソコンもやめた。でもここでコンピュータへの思いはどうしても断ち切れなかった事を告白せねばなるまい。コンピュータをいじったり、コンピュータの事を考えている時が、私にとっては何より楽しいのだ。
しかし統合失調症の身の上ではコンピュータでメシを食っていく事は叶わない。そこで妥協策を考えた結果、コンピュータとは程よい距離を保ちつつ、今後も趣味として付き合いを続けていく事にした。それは夢とか仕事とかではなく、ホビーとしてコンピュータと接していくという事だ。こんな妥協点を見出せるようになったのも今年一年の成長の賜物だろう。
今年ももう終わる。年の初めに立てた目標は一通り達成できた良き一年であった。『生活習慣の安定』を目標にして頑張った一年であったが、現在睡眠を中心とした生活習慣全般は至って正常だ。昼夜逆転生活に長い間振り回されたが、現在、もう一ヶ月以上理想的な睡眠が実現できている。
過去にも突発的に睡眠が治ることがたまにあったが、続いても二週間がやっとで、その後はまた昼夜逆転に戻るのがおきまりのパターンであった。でも今回は違う。現在五週間ほど直っている。これは最長記録ではないだろうか。
以前のエントリーでも書いたが、『規則正しい食事』『規則正しい服薬』『整頓された部屋の維持』が昼夜逆転を治す為に効果的であった。今回、私は更にダメ押しの一手として、昼間アクティブに活動するということを実践した。玄関の落ち葉掃きから庭の草むしり、買い出しや家の掃除などなど、家事を中心に出来る限り動き回るようにした。
放送大学の所属を『教養学部人間と文化』から『教養学部情報』へ変更した。念願だった情報学を学べるなんて夢のよう。在学可能学期数の残りも僅かだが、これから追い込みにかかる。来学期まで待てなかったのでテキストはAmazonで揃えた。
Parrot Flower Powerなるものを買った。これを植木鉢にぶっ刺しておくと、日当たりや水やりなど、植物の状態をスマホでモニタリング出来る。これでガジュマルへの水やりを忘れずに済む。何だかハイテクだ。
ファミマのブレンドコーヒーにLサイズが出来たのは助かる。だが機械の操作に手こずった。『Sボタンを二度押してください』って書いてあるからてっきりダブルクリックの要領だと思っていたが、そうではなくSサイズ二杯分がLサイズだって事なのね。カップの半分で止まっちゃったから少し焦ったよ。
冷蔵庫の中の大掃除をした。賞味期限の切れたもの達のオンパレードであった。特に味噌やマーガリン、ケチャップにマヨネーズなどのドロドロしたものは処理に手こずった。でもおかげで冷蔵庫の中がスッキリして・・・、いやスッカラカンになったと言った方が適当かもしれないが、やって良かった!!
前回のエントリーでこの世は地獄であると書いた。地獄を受け入れて初めて一人前の大人になると書いた。ならば地獄を拒否し『抵抗』する統合失調症というのはこの世界の落ちこぼれなのだろうか。ここから話はぶっ飛んだ方向へ進む。こんな事を考えるのも私の妄想という症状ではあるのだが・・・。
この世界は全てが悪だ。その悪を肯定できないと頭が狂うと言うのが前回のエントリーの概要だが、当然世界には善も条件付きで存在する。ただ無条件の善というのはこの世のバランスを著しく崩す。何故ならこの世は地獄だからだ。地獄に善が増えすぎると地獄が地獄でなくなってしまう。あくまで『条件付きの善』である事が重要だ。
無条件の善とは言ってみればサンタクロースやディズニーランドのようなもので、その夢はいずれは覚めるものである。一方で条件付きの善とは全てについて無条件の善であろうとするのではなく、自分の何よりも大事な物や、人や、生き方を守る為にのみ善を使い、他方でその他の事柄に対しては『悪でいる事を厭わない』といった条件でのみ存在する善である。
決して後ろ向きの意味ではなく、前向きな意味でこの文章を捉えてほしい。『この世界はクソッタレであった』それが私が長年考え続けて出た結論だ。
私が中学一年で引きこもりになった時、私には一種の人間不信が見られた。学校ではいじめも見られたし、下ネタも飛び交い、受験を意識した子供達で殺伐としていた。心も体も変わっていく過渡期の子供達。私は世界が今まで居た小学校とあまりにも違う事に戸惑った。私はピュアだったんだ。それがいけなかった。この世界は素晴らしく、学者や医者や政治家は、皆立派で凄い人たちなんだと本気で思っていた。
私は今の年齢になってようやく、この世界というものを受け入れる事が出来る様になった。思えばあの時、世界・人というものが判らなくなってしまったから私は頭がおかしくなったのだ。あの時から私は、この世界が素晴らしいものであるという事を肯定する為の材料を求め続けた。が、結局そんなものはなかった。